
別に現状はこうだと断言するつもりは無いのですよ。
論理的に考えると前回の情報が大したこと無いことか、
或いはブラフになりうるというのはどうでもいいんです。
無いものは無いんですから、
それに関してどうこう言っても仕方ないですよ。
これは哲学的な作品だ。
こんなやり取りが聞こえます。しかし、哲学的な作品だから
哲学があるとか、つまらないとか、そんなコトはないと考えます。
というのは、考え始めたらそこに哲学があるからです。
誤解されているかもしれないのでココで一つ。
例としてふさわしいか分かりませんが、ウルトラマンという特撮がありますよね。
俺自身、幼い頃にしか見てないのであんまり覚えていないので例として
引っ張り出すのが不安ですが、続けます。
(オレの体験では)よくウルトラマンセブンは哲学的だと知人とかに言われます。
前述の通り、セブンに関してはよく覚えておらず、何か夕日が似合うような
感触がボンヤリと残っている程度です。少なくともつまらなかった
記憶はありません。だからこそ思うんです、哲学的だから
つまらないとか言うのは根拠としておかしいのではないか。
純粋にヒーローがヴィランを滅多打ちにすることに
シンパシーみたいなものを感じていたと記憶しています。
まぁ、それも少々問題なのですが…。
それはさておき、哲学ってのは考えた瞬間に始まります。
別に作品が哲学なんてコトはないと考えます。
作品について考えたら、ソコで哲学なんです。
作品に哲学が付随しているというのは
なんか違うと考えます。別に”哲学的”じゃなくても
作品を元に哲学することはできるのですから。
さて、人間性についての話に戻る前に一つ考えて欲しいことがあります。
それは我々は世界に生まれたのか、社会に生まれたのか、
それとも違う何かに生まれたのかというコト。
それは一体なんなのかというコトを考えるだけでも
少しは理解が進むと考えます。
最近、”確実性”を求めることの限界を感じます。
誤差を認めざるをえないし、言語にしろ何にしろルールが
存在する上に、”それ”が正しいということを”その”分野内で
証明できない…自身の動物本能のみが確実とでもいうのか。
|2008年11月15日 02:22
|雑記|餐庭 あまね|▲

最近ネットに繋げている時間が少ないので、
どうもサイト上の情報を整理しきれていないような気がします。
少しややこしいのでココで今ひとつ整理しておきましょう。
各人がどこまで把握していらっしゃるか分かりませんが、
ウチはこれといって本質的な制作工程、或いは創作論理を
展開してはいません。また小話としてはフランスにおける
2月革命のBanquet(改革宴会・革命宴会)にちょっと触れ
ネット上でちょっとディスカッションした程度です。
(当サイトのサバイバル・ロッタリーとかの議論は別として)
とにかく現時点では”考える”としか
申し上げていないはずです。それはデータを取ってそれを元に
重回帰かける某社みたいなデザイン方法が良いとも悪いとも
申し上げているのではありません。”考える”という行為を
物凄く大きな枠組みとしてイメージして下さい。頭の中でイメージし、
それをより明確なカタチにすることも考えることになりますよね。
制作工程に関してはその程度のことしか申し上げてません。
それと誤解があるようなので解いておきたいのですが
俺は『ペルソナ法』を否定した覚えはございません。てか、無い。
むしろその逆の肯定的な意味で発言した記憶がございます。
トータルとしてこう申し上げておきたいのです。
俺は”何一つとして駒を動かしてない”
それは停滞というコトを意味しますが、退行とは考えません。
相対的に停滞としております。何もやっていないという意味で
停滞としているわけではありません。事実上、サイト更新してますし。
駒を一旦動かせば盤面の表情が変わります。
まず、それを理解し、瞬間的に判断を下す必要があります。
しかし、現時点ではそれに追いつく力量や資料が足りてない。
例として…、
今回は久々に、ついさっき描いたイラストを記事のイラストとしています。
3,4分程度の素描なのですが、色々と足りないものを俺は感じてます。
素早く上手いイラストの説得力というのは、
頭のイメージを”より”"ピンポイント”に長いストロークの線でサッと紙に定着させること
だと考えてます。そこには様々な要素が絡んでくると俺は考えてます。
そして、そこには自己対話が必要と考えています。現在は自己対話の徹底などを
しているのです。そこで、色々と曖昧だったところが
自分の中で明らかになっています。
故に現時点で公開するべきものはないと考えてます。
だからといって、サイトのコトを放置してしまうのは意味が違います。
サイトに訪問がある以上、その訪問を無駄足にするべきでは無いと
考えてます。そのためにこうして、今後のガイド的なものとして
議題めいたものを提供しているのです。
しかし、それは本質的にサイトなどが進展しているわけではありません。
活動というようなアクティビティを期待するのであらば、
もう暫く間をおいてから訪問して欲しいというのが
俺の願いです。現時点でサイトで行っているコトは
小ネタの議論において、俺自身の認識の再考と、
お客様に対する疑問提供であります。
その疑問提供が後々のことに関わってくるのは、
『俺自身の認識の再考』があるためです。
ある概念に対する考え方が変われば
必然的に主題が変わってきますよね。
今までちょっと変な仕掛けを用意してきた所以で
信用性は低いかと予測されますが、そういうコトとなります。
ただ、これは俺のロジックなので皆さんにとって
“ロジカル”では無いかもしれません。ただ今のところは
これで一通り納得してもらいたく存じます。m(_ _)m
以上を持ってコメント返信を一括したこととさせて頂きます。
で、今回の議題は神の存在とします。
神が存在する場合の論理と神が存在しない場合の論理を考えてみて下さい。
これは宗教や神学の否定ではありません。あれはまた別の問題です。
とにかく考えて欲しい。神がいないと全否定するのは簡単です。
しかし、いると主張する論理を打破するのは結構難しいです。
これに関しては自分でも不安な部分がありますので。
|2008年11月08日 02:29
|雑記|餐庭 あまね|▲

あるところにクレタ人という人種がおりました。
あるクレタ人がこう発言しました。
『クレタ人は嘘つきである』
…嘘つきが自分が嘘つきというのはどういうことでしょうか。
ここで一つ考えてみましょう。
“嘘つきである”が嘘であるならば、クレタ人は正直者となります。
クレタ人が正直者であるならば、クレタ人は嘘つきは事実になります。
クレタ人が嘘つきであるならば、”嘘つきである”は嘘になります。
“嘘つきである”が嘘であるならば…
どうやら堂々巡りになるみたいです。
これも有名なパラドックスです。
パラドックス回避を簡単な話に噛み砕くと
この発言自体を嘘として適用してはならないということです。
詳しい話はウィキペディア参照で。
今までの流れを思い出してください。
ここまで数ヶ月かけて人間観について考えてきました。
外的世界と内的世界、色々と考えてもらったはずです。
そこでその過程を思い出しつつ、そこで出てきた疑問や
結論の文章、コトバをよく見つめなおしてみて下さい。
何か変わったことが起こるのではないでしょうか。
今回の疑問はちと時間がかかると見込んでますので
今回はこの辺にしておきます。
キャラクターは理論で作るべきか否か。
そろそろ考えたりやることを今一度整理しないとな。
|2008年11月01日 01:19
|雑記|餐庭 あまね|▲